恋する季節 9

 朝。中途半端に寝てしまったためかいつもよりからだが重い。僕は稲垣を起こし、支度をはじめた。稲垣は寝起きこそだるそうだったものの、新しい歯ブラシよこせだの化粧するから出て行けだの、もうすっかりいつものテンションだ。元気な女。
「おい、稲垣、早くしろよ」
僕が再催促してようやくリビングから出てきた。朝食取る余裕はなく、僕の車で出勤だ。
「ふあああああ……」
助手席ででかいあくび。なんかもう馴れ合いだな。
「そうそう。ソアラーだったんだね。意外」
「悪かったな。語尾のばすなよ、妙な車マニアに聞こえるじゃないか」
「こういうのって珍しいもの。四堂さんはローバーだったよね?」
「オレアウトドアしないから2ドアで十分なの。第一オレがローバーっぽいの乗るように見えるか?」
稲垣は首を横に振った。
「……でも裏返せば彼女しか乗せないってことだよね。あ、ねーねー、ついでに週末ドライブしたいな」
ついでにって。
「もういいよ、お前欲張りすぎ。他の男誘え」
「いないもん」
「会社の仲間と行けばいいだろ」
「仲間じゃん」
大きな声で言って稲垣はバックミラー越しに目線を合わせた。
「結婚したら他の人とドライブなんて一生できないわ」
「そのかわりダンナと可愛い子供とキャンプとか行けるじゃないか。楽しいぞ」
稲垣はいかにもいやそうに頭をぷるぷる振った。
「やだ。今は遊びたい」
「はあー、どうしてそんな結婚に踏み切るかな。未練たらたらじゃないか」
「こわいのよ。全く何もない状態になるのが」
「お前なら大丈夫だよ」
「もう26だもん。一人にはなりたくない」
「だからって気の進まない男と結婚して後で苦しい目に合ったらどうするんだよ。離婚するよりも破談の方がまだ影響少ないだろう」
「その時は不倫する」
「お前なあ」
「ねえ、いざとなったら訪ねて来ていい?」
「あー? 冗談だろう。オレは人妻には興味ないよ。そこまで面倒見きれません」
「新幹線で日帰りできるわ」
「お前ならやりそうだな。だがそういうのっていちいち言わずに自分で探すんだよ。同じ目的のやつが必ずいるんだから」
「そんな人とはやりたくない」
「じゃあ結婚断れよ」
「そんな簡単に言うけどねえ……」
またしても結論のでない会話を繰り返し、僕は強引に週末の約束をさせられた。僕も甘いなあ。まあこれが最後だと思って……。
「あ、そこでいい。止めて」
「へーへー」
稲垣はパンを買うと言って先に車を降りた。



 秘書課のやつと関係を持ったのはこれで2人目だ。前は同期の社長秘書だった。これがまた稲垣とは比べ物にならない程つわもので、僕は一晩で懲りてしまったのだ。僕も大概情けないな。いや、どうして彼女らはこんなにパワフルなんだろうか? ウチの会社はいまだに秘書イコール才色兼備の路線でいってるが時代遅れもいいところじゃないだろうか。政治家の秘書だって大抵男だぞ。
「ウチの稲垣の送別会だけどー、何人くらい来れる?」
会議の打ち合わせの後、その社長秘書、清水と四堂と僕とで久しぶりに一緒に昼食をとった。とんかつやである。
「んー、12人。稲垣、いつやめるんだっけ?」
「えと、今月って聞いたけど。退職届、まだ専務止まりなのよね」
「専務も受け取るの複雑だっただろうな」
僕は二人の会話を聞いていた。やっぱ不用意に飛び込めないよな。
「どうなんだろね? 本人はもう割り切ってる風だったけど。『ありがとう、清水さん。結婚して幸せになります』なんて言われたよ」
「でも辛いのは女の方だからな。専務もひどいことするよな」
「……何の話?」
僕は思わず割り込んだ。話が見えない。
「知らない? 稲垣の社内恋愛」
「知らない」
ほんのすこーし胸の奥がチクッとした。でもそれは全然見当違いみたいだが。清水が僕に説明する。
「稲垣、専務とできてたのよ。真面目に付き合いたいって、あたし相談されたことあるの。でも専務は遊びだったみたいで、稲垣一人で悩んだ末、今回結婚退職することになったの」
「オレ、専務と稲垣が一緒にホテルいるところ見ちゃってさ」
「いつから?」
「去年の暮れ。最初は隠してたみたいだったけど、退職願出す前清水に告白したんだと。お前、何も知らないの? 時々稲垣と喋ってたじゃないか」
んー、喋ってたというか、ヤッてたんだよ。
「オレ、噂話うといし」
僕の返事に四堂は頷くだけして再び清水と話しはじめた。この中じゃ僕は完全に部外者。でも驚いたのは事実だ。
「全然気付かなかったな……」
僕は黙り込んだ。専務については本人から聞いたばかりだが。へえ、そういうことだったのか。それであんなに結婚しぶってたわけか。それなら筋が通るぞ。専務は独身だが結婚する気は全くないからな。なんだ。じゃあ僕は不完全燃焼だった社内恋愛のくすぶり消しとして利用されたってわけですか。ふうん……。

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