恋する季節 39

 脱力感漂う個室。いや、今は密室で僕は改めてタバコの箱を取り出した。
 隣で息を整えた彼女は股に指を滑らせチリチリになったストッキングの端っこをつまんで勢いよく腕を下げた。
 手際よく脱いでまとめてポケットにしまいこむ。「はーあ」と息を吐いて僕に近寄った。彼女はとりあえず峠を越していた。空気の緊張は伝わってこず、僕の格言は一応効力を発したのだ。
「まあ、どうだっていいんだけどー」
言葉はいつもの同僚で、髪をかきあげる仕草も自然だった。発言自体は、まあ、イッた後の照れ隠しみたいなもんだ。
 ね? これだから女は奉るに限るよ。と、心のどこかで自答するオレ。目の前をさえぎる紫煙が妙な感じだ。
「どうだっていいって、やな言い方。オレじゃなくても誰でもいいってわけだ」
前を向いたまま、真横の彼女に言った。ふーっと吐き出すともやもやした煙どもが吹っ飛んだ。ふふと息で笑われた。
 指の先はもう乾いていて、ほんのり匂いが残ってる程度だろうか。「やーね」
そんな僕の指に彼女のが触れた。顔を寄せ耳元で囁く。
「キョウスケじゃなきゃこんな所ですっきりさっぱりできないじゃない」
「オレはロボットじゃありません」
触れた指先をそっと離して相変わらず前見たまま僕は言った。
 いつも同じこと言ってないか、オレ……。
 そうひっかかりながら。
 さっきの高揚は無機質な壁のパネルに吸いこまれでもしたのか。僕の下半身も落ち着いてきていた。
「そうよねえ。でもね、わかってるんだけど、『刺激』だけ欲しい時があるのよ」
「へーーえ」
それは理屈ではわかるような気がする。僕はタバコをもみ消した。
 ちょっとした間が生まれる。
「ねえ、会社の子、食い漁って、楽しい?」
一息ついて彼女はこう言った。僕の顔を覗きこむように体をひねって。真顔を向けた。
「え」
僕は、躊躇した。思わぬその単語に。
 一方彼女はというと、僕の表情に念を押すように頷き、
「……でしょ? 清水っちに稲垣に、他にも……。キョウスケ、全然結婚なんて考えてないでしょ。食い荒し放題だもんね」
そう思いこんでる大林の態度が僕には意外だった。

『食い荒す』って……。オイ。

「おい、その言い方ひどいんじゃないの? く、食い……って。オレ、決して食ってなんてないけど」
「はあ? そう?」
大林はやっと顔を引っこめた。真面目な表情はそのままだった。大きくまつげを瞬き、「いいわよねえ、ひとり身って」とまたつなげる。
「おいおい、どうしてそうなる? オレが漁ってるように見えるか?」
「だって、実際そうじゃん、清水っちなんて1ヶ月どころか1週間もたなかったでしょ? 他にもさあ、受付の子とかちらほらつないで、いつのまにやら稲垣……。私、ホント、マジ驚いたのよね、あの子、てっきり……」
そこで口をつぐんだ。その先は言わなくても僕にもわかった。

『……専務とできてるんだとばっかり』

それはもはや無言の了承だった。稲垣は上司との不倫を隠すため、いわば偽装結婚しようとしていたのだ。それが、ある日突然、僕とできちゃってるらしい、という話になり、下世話なメロドラマを地で行くような展開、僕は稲垣を寝取ったのだ。専務から、婚約者から……。
 と、そういうことになっていた。
 んーー。思い起こせば決してそんなルートじゃなかったわけだが。いちいち苦い思いをするのもイヤなのであえて何も語らず、の僕だった。
 だが……。
「けど、稲垣とももう『終わり』なんだ? 一体何人食っちゃえばおさまるのかな、キョウスケって。そのうち階下のモテナイくんに刺し殺されなきゃいいけど」
「だからやめろよ、そんな。……オレはそんなに遊び人じゃない」
心の底からそう自覚してるんだけど、我ながら空しい響きだった。案の定、大林はきゃははと軽くあしらって、ドアの方を向いた。
「みんなさ、キョウスケの○○○でつながっちゃってるわけよね。そう考えると笑えちゃうよね。ああー、やっぱ職場ってダメね。私はね、今みたいなのでいいから。また『たまっちゃったら』お願いね」
さっきとは大違いの、実に軽い声、足取りですっと出て行く。
 終始一貫して、オレの話など耳にはいってないに等しい。
 自分からせがんでおいて、言いたい放題、か……。

「……それで満足なのか?」

オレは憤りともならない胸のつっかえを閉じた扉に吐いた。





 釈然とせんが、メガネをかけて元に戻った僕は次の予定へと頭を切り替えた。社長について某企業社長と会食。きりのいいところで仕事を終え、早めに階上へ向かう。
 エレベーターを降りてロビーを抜け、廊下の向こうの社長室のドア付近に清水が立っていた。
 目があって無言でお互い近寄る。「おつかれ」と小さな声がきこえたと思ったら、すーーっと僕の脇に寄ってきて、僕の目を捕らえた。厳しい目つき。この溜め、何か言いたそうだ。
「中に入りたいんだけど」
無視してそうしたかったが、出来そうにない雰囲気なので目を見たまま言った。
 彼女は視線をそらさず、全然違う言葉を返す。
「ねえ。あんた、稲垣とどうなってんの?」
腰に手をやって恐い。『コンパ』の余波はこんなところからも打ち寄せてくるのだ。
「どうって。こんな所でそんな話するなよ」
「いいじゃないの。仕事はもう終わりよ」
「じゃあ、さっさと帰れよ。オレはこれからまだ行く所があるんだ」
「あたしだってそうよ。着替えなくちゃならないんだから。早く答えなさいよ」
「るさいな。お前に関係ない」
「あるわよ。コンパだなんて」
「それはオレには関係ない」
「はあ? あんた、自分の女がコンパなんてやって許すの?」
許すも何も……。
 結局僕は尋問に乗らされ、もごもご喋っていた。
 するとドアが開いて、社長が現れる。
 僕は救世主とばかりに彼女から離れた。社長は、「まだ着替えとらんかったのか」と清水に言った。
「はい。支度してきます」
「うむ」
支度? 僕は彼女の腕を掴み、耳打ちした。「何だよ、支度って」
「あたしも呼ばれてるのよ」
「はあ? 聞いてないぞ」
「先方に言われたのよ。離しなさいよっ」
清水はぷんと腕を振り放してさっさとエレベーターに向かった。
「まだ早いな。ゆっくりして行こう」
「え、ええ……」
僕は社長と共にロビーに座って彼女を待つ。
 変な図……。あの女。社長に向かって『すみません』のひとこともナシ。何なんだ。僕が社長だったらガツンと叱りつけるのに。いや、そもそもあんな女絶対秘書になんかしない……。
 やがて着替えた清水が現れ、揃ってエレベーターに乗る。社長の背後で二人並んで、香水の匂いがプンプンする。
 たまらず、僕はこしょこしょ吐き散らした。
「何でお前が行くんだよ」
「お誘い受けたのよ。『きれいな秘書さんも是非いらして下さい』ってさ。くふふふ」
「はあ?」
呆れて声を失う。会食なんて元々好きじゃないのにこんなヤツと一緒なんて最悪だ。
「どうせまた偏食で残しまくるんだから、勿体無いわよ。あたしがあんたの分も食べてあげるわ」
『フン』
僕はそっぽ抜いて場の悪さに耐えた。
 こんなヤツ、会談の邪魔にならねばよいが。
 ……という僕の懸念をよそに、料亭の席で話は実にスムーズに進んだのだった。
「秘書の方っていつも雑用ばかりで大変でしょう?」
とか、
「女性が一人いらっしゃると場が和むんですよ」
とか、あり得ないおべんちゃらを交え、本来の目的であるプロジェクトの合理化について比較的若い経営者を前に延々と続き、清水は自分で言ってた通り僕の分まで皿をよそって、終始口を動かしていた。
 僕はできる限り平静を保ちつつ、胸の中は煮えたぎっていた。

 ……見ろよ、この場面。
 誰が女を食い漁ってるって?
 食われてるのはオレの方だぞ、オレ! 間違いなく。

 それは真実。僕はいいように食われてポンと皿に投げ捨てられる海老の殻と対して変わらないのだ。
 アナリストだか、オペレーションマネージャーだか、役員に継ぐ位置にいてそれなりに会社に貢献してると自負してる僕であるが、下半身の方も貢献『させられてる』わけなのである。
 たまらない……。そういうとこからまず合理化して欲しい。
「ほほほ」
ヤツのぬるぬるした唇が恐ろしく光って見えた。

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