恋する季節 26

 仕事が片付くと僕は久しぶりに上のラウンジでタバコをくわえた。もう日も暮れてしーん としてる。おそらく誰もいないんだろう。夜景が見事だ。僕はそのパノラマをひとりじめにしていた。タバコがうま〜い。専務に1カートン頂いてしまって特に 御機嫌だ。そのうちふっと人の気を感じて振り返る。
「ここにいたの」
稲垣だ。私服に着替えてる。
「ああ。ちょっと一服して帰ろうと思って。もうみんな終わっちまったのか」
彼女は頷いた。ダークなブラウスとミニスカートのせいか、いつもより表情が大人しいような。
「タバコが好きね」
「ふふ、ちょっと重役気取りな」
僕が言うと彼女は笑った。
「やだ。キョースケだって重役みたいなものじゃん」
「違うだろ」
はくがないよ、はくが。と苦笑する。彼女は急に真面目な顔になって近付いた。
「ねえ、ごめんね、怒ってるでしょ」
「ん、何が」
「あれよ。無くて慌てたんじゃない?」
「何の話?」
何のことかわからなくて僕はタバコの灰を落とし、トレイに置くとひと息ついた。
「やだ、聞いてないの? 清水さんにもらったんでしょ?」
「清水?」
僕はいぶかしげに彼女を見つめた。
「専務の資料よ。あたしが持ってたの」
「え」
瞬間、もうとっくに記憶の彼方に消えかけていた夕べの悪態が蘇った。あ、あれが?
「何でお前が?」
「あたし、あの時……あ、朝の話ね。何となくフロッピー出してそのまま持ってたのよ。後で言えばいいやって思ってたのにすっかり忘れちゃってて。昨日ロッカーの奥から出てきて、あ、やばって思って清水さんに渡しちゃったの」
「何だ、それ。でもオレ確かに自分で取り出したぞ。お前も見てただろ」
「うん……。そうだっけ? あたしぼおっとしてて。あの時もつい同じ色のフロッピー入れちゃったの。なんか癖なのよ」
「専務に渡せばよかったのに」
「まだ出来てないって言ってたじゃない。どうしよって。それで焦って」
僕は苦笑した。何だよ、マジかい。じゃあアレはずっとロッカーに眠ってたのかよ。不用心だなあ、オイオイ……。
「お前〜笑い事じゃすまんぞ(笑ってしまうが)。まるでスパイじゃないか」
「うん、ごめん。罰が悪くてメールできなかったのよ。清水さんに『これ渡してもらったらわかるから』ってお願いしてさーっと逃げちゃった」
稲垣はすまなそうに舌を出した。僕はその時やっと全容が理解できた。何故足元に大事な資料が転がっていたのか。清水が投げ付けたものがなんだったのか。何 故アイツが現れたのか……。何なんだ。あの女〜〜、フロッピーのこと一言も口にしなかったじゃないか! さっさと用を済ませて帰ればいいものを、ぐだぐだ 因縁つけやがって〜〜! 腹の奥底で怒りが再燃する。
「ごめん、怒ってるよね」
「いいよ。もう」
彼女の声を聞いて僕は急いでしかめ面を訂正した。彼女を怒る気にはならない。どっちにしても無事済んだことなのである。
「お前も忙しいんだろうしな」
僕はタバコの長い灰を落とし、再びくわえた。
「そう。あたし、辞めるのやめたの」
「聞いたよ」
稲垣は腰掛ける僕の前にしゃがんで僕の顔を見上げた。
「昨日課長に言って、今日専務に辞表却下してもらったの。すっきりしたわ」
「ヤツと話したのか」
僕が尋ねると稲垣は首を横に振った。
「直接式場に電話したのよ」
僕は笑った。
「お前、やる時は大胆だなあ。それで向こうはどうなんだ?」
「ふふ。今頃親の所に確認の連絡がいってるかもね」
彼女はおどけた。そんなもんか、婚約破棄なんて……。僕はくっくっと苦笑するしかない。
「あいつは……」
「……携帯にかかってきたら拒否してやるわ。もう声聞きたくない。会いたくない」
稲垣は僕の膝に頬ずりした。アイツか……。優しげというか頼りなげというか図体だけは勇ましい男の姿が浮かぶ。そっか。よかったな……と言うべきか。
「ああ〜キョースケのお陰よ。ねえ、今日一緒に帰らない? お礼に何かおごるわ」
「オレに?」
「そうよ」
「家に帰りたくないんだろ、また」
「もう。それもあるけど純粋におごりたいの。感謝してるの」
僕は稲垣の髪を撫でた。彼女はその指を握り、舌の先で舐めた。猫みたいだ……。ついじっと見つめてしまう。
「ねえ、これからもずっと一緒にいてね」
「ああ」
「ずっとよ」
僕はふふっと笑った。
「まあな、期間限定でな」
「やだ、何、期間限定って」
彼女は顔を上げた。不思議そうに僕を見てる。
「オレ近々辞めるもん。アメリカ行くんだ」
僕はいたって普通の調子で言った。
「えっ」
稲垣の目が丸くなった。
「うそ。辞める? アメリカ? いつ?」
「ん〜。来年当たり。知らなかったか? オレ一応『跡取り』なんだぜ〜?」
そうそう、僕はボンボンなのだ。何故か今は『何でも屋』に成り果ててるがな。僕は笑って続けた。
「できれば結婚して嫁を連れて行きたかったけど、どうも無理っぽいな。まあ、最初から決めてたことだからしゃあないさ」
「け、けっこん? 結婚、するの……」
「するさ。何だよ、その言い方。オレしない風に見えるか? がっかりするなあ……」
そういえばよく言われるんだよな、同じようなこと。誰だったか。どうも納得いかないな。
「やだ、そんなの。しないでよ、結婚なんて」
稲垣は小さな声で言った。僕は少し吹いてしまった。
「お前それはないだろう。自分はとっとと結婚しようとしてたくせに」
「そ、そんな……」
「まあ、そういうことさ。こんな期間限定男でよかったらいつでも相手しますよ。お前もそのつもりで……」
『……いろよなっ』と言おうとした僕の口が止まった。彼女の目から涙がこぼれたのだ。
「稲垣?」
僕はぽかんと彼女を見つめた。間が空く。
「やだ、あたし、泣いてる?」
声が震えていた。涙を引いてる。初めてだ。いや、2回目か。にしても全然違う……。僕はびっくりして、コクコク頷いた。
「……お前、コンタクトがずれた、とか言うなよ」
「やだ、結婚なんて……」
稲垣は僕の胸に抱きついた。しくしく泣き続ける。僕は何をしていいのか思い付かなかった。
「稲垣」
やっと名前を呼んだ。彼女はゆっくり顔を上げた。頬が涙でぐしょぐしょになってる。
「いや。結婚しないで。好きなの」
「え?」
一瞬ドキッとする。
「好きなの。好き……。本気よ」
涙で濡れた瞳がゆらゆら揺れてる。僕は思わず辺りを見回した。
「って、お前、誰に言ってんの?」
「ひどい……。他に誰もいないじゃない」
彼女はくしゃくしゃに押し潰れた声で呟いた。そりゃそうだ。そうだけど……信じられないよ、それが僕に向けてのものだとは。
「好きなのよ。キョースケ」
「稲垣」
彼女は再び僕に抱きついた。
「好き。好きなのよ。体だけじゃないの。セックスする度に押えきれなくて……。夜一人で眠れなかった。もうずっと前からなの……」
そんな……。僕は動揺した。同時に今までとは別の感情が慎ましやかに沸き上がるのを感じていた。
「でもお前……」
「いや、言わないで。キョースケ。好きなの」
「稲垣」
「愛してるわ……」
愛してる愛してると耳元で囁かれ胸の奥がざわざわする。どちらからともなく顔を寄せた。
「愛してる。愛してる。愛してる……」
ずっと呟く稲垣の唇に自分の唇を重ね、ぎゅっと抱き締めた。「ん……」何度も何度も首を傾けて。からめて舐めあって……いつもそうなのであるが……今回は事情が違う。何だかいじらしくてたまらない……。でも、その時だ。
「ちょっとー。何やってんの、あんたたち!」
大声がしてパッと顔を離し二人揃って振り返った。ラウンジから通路に続く場所に清水が立っていた。
「何なの、一体」
夕べに負けず劣らず仰天な形相である。と、デカイ声。「あ……」
僕らはひっしと身を寄せた。必然的に……そうならざるをえない。
「何よ、稲垣、突然辞めないって言い出したかと思えば、どういうことなの? ちょっと……キョースケ!!」
稲垣に話を振りながらも清水はずっと僕を睨んでいた。きつく。恐ろしい例の『鬼の』面である。
「あ、あたし、……さんに、結婚のこと相談してて……」
シャクリ声で稲垣が言った。僕のスーツにくっついて殆ど声になってないような。でも清水は容赦なかった。
「相談? 相談って何よ。何でこんなとこでそんなことしてるわけ? 何相談してるって言うのよ!! 言いなさいよ!!」
声がキンキンフロアに響く。なぁ〜にが。そんなにまくしたてられたんじゃ言えるもんも言えねーよっ!
「るっせーな、だからそういうことだよ、見てわかるだろーが! お前も気がきかねーなっ、こーいう場合、見て見ぬふりして引き返すだろっ、フツーはなっ!」
カッとなって立ち上がり僕は叫んだ。
「なっ、何ですって〜。なぁによ、開き直っちゃって!」
清水と僕は睨み合った。ヤツは仁王立ちして一歩も譲らない。話にならないんじゃいても仕方ない……とばかりに僕は稲垣の肩を抱いて立ち上がらせると清水の横をすり抜けようとした。
「ばぁか! たらしっ! あんたがちょっかいだしたんでしょ」
「お前には関係ないっ」
「フンッ!」
僕らはお互いそっぽを向いて離れた。ったく、二日続けてあの顔は見たくないぞ、不愉快だっ! 僕はぶくぶく気味悪く湧いてくる劇薬の泡をこれでもかという くらい押さえ付けて鎮静し、力のない彼女の体を引き寄せ廊下を歩いた。巨大なビル。ひと気がなく薄暗い。エレベーターで下に降りる間も稲垣はずっと泣いて いた。
「泣くな、稲垣。側にいてやるから」
「う……うう……」
「泣くなよ、泣くな」
ひっくひっく泣きじゃくる彼女がとても可哀想で抱き締めずにはいられない。僕が支えてやらないと間違いなく崩れ落ちる。乱れてしまった彼女の感情はとてもおさまりそうになく、僕は稲垣を連れエントランスを出るとすぐ近くのホテルに部屋をとったのだ。

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