恋する季節 25

「君のような情報系の社員をもっともっと増やすべきだねえ。中国に行っても韓国に行ってもそう感じるよ。俗化のスピードは凄まじいね。向こうの言葉で喋ってるとふと自分の国籍がわからなくなる。半分本音だ。今回は無理言って悪かったね」
佐久間専務は僕に言った。例の資料を直接手渡し、中身を逐一確認した所である。毎日毎日くそ暑い日が続いているが全くそれを感じさせない専務室は眺望もま たすばらしく、炎天下の外苑とその向こう、微かに副都心の摩天楼が見える。もっともそれは上層階の全てのフロアに言えることであるが(ビューポイントは別 として)。その景色を背に専務は一服される。我が愛飲のタバコと同じ銘柄だ。
「専務、上海にはいつ?」
「ん、明後日だが」
「そうですか。ゆっくりできるといいですね」
「ふふ、ありがとう」
ふーっと煙を吐かれる専務。いかにもうまそうに。いやうまいのだ。僕にはよくわかる。
「いやぁ、行く度に変わってるねえ。まるでサイバーだね」
「そうですね」
専務は特に出張が多い。それも殆ど中国だ。というのも専務は長年中国に赴任され、言語やコネや情報のエキスパートなのである。そしてその間一度中国人の女性と結婚されており、今回予定を早められたのはその元妻に会われるためであろう。
「君もどうぞ。少しだけだがゆっくりしたまえ」
「あ、はい」
専務が差し出されたタバコの箱へ僕は指を伸ばした。
「あれ? きみ、どうしたの? その傷」
接近した僕の顔を見て専務は尋ねた。夕べの生傷。手当てのかいもなく切り傷の周りがうっすらあざになっているのだ。
「は、い、いえ、ちょっと、ぶつけまして」
僕は慌てて頬に手を当てた。専務はくっと吹いて意味深な笑みを浮かべた。
「そう。大変だねえ、きみも。まあ気をつけたまえ」
うっと言葉につまる僕。見抜かれてる、さすが……。佐久間幹彦専務、48歳。やくざムービーなんぞに登場しそうなはくのある色男。生まれながらの造作もさ ることながらその実績と年齢の醸し出す男の色気は20や30の若ゾ−では絶対に出せない。元祖『たらし』とも言われ、噂によると30代後半以上のキャリア 女性が僕ら20代の男性社員に流れてこないのは専務が一手に引き受けてるかららしい。すっげ、尊敬するぞ、オレは。
「遂に消えてしまったねえ。何となく予感はしていたが。この際やめてしまえばよいものだが、どうしてもこうして口にくわえてしまうのだよ。他に移ろうともせず」
専務は愛おしげにタバコのパッケージをさすりながら言った。
「僕もそうです」
専務はあははと笑われた。
「切らしてしまったら遠慮なく持っていきたまえ。秘書に言っておくから」
「はい。いや、それはどうも」
僕は曖昧に返事する。秘書と言うのはもちろん稲垣だ。アイツのことを専務はいつも『秘書』と呼ぶ。何か変な関係だよな、オレたち。
「どうも肩身が狭くならざるをえないねえ。堂々と吸っているのはむしろ女性だ。上海も女性スモーカーが多いね」
「奥様もですか」
僕は控えめに紫煙をくゆらせながら尋ねた。奥様、というのも変だが。他にいい表現が思い付かない。
「はは、そう、吸ってるねえ。僕と知り合う前からだから彼女ももうやめられないだろう。注意するような人間もいないしね。おかげでこっちもリラックスして吸えるがね。アジアの女性もタバコが似合うようになってきたもんだ。こんなこと言うと怒られそうだが」
元妻殿は上海で外資系の企業相手にコンサルティング業務をいくつもこなす才媛なのだ。専務とはお互いの立場を考慮し離婚されたのだが、その後もこうしてい い関係を保ち続けている。熟した大人の関係とでも言うか。僕もシンガポールにいたとき恋人がいたが任期が終わると共に別れてしまった。恋なんて離れればも う終わり、と信じ込んでいた。やっぱり僕はまだまだ子供なのだ。
「シンガポールは別ですよ。僕は意地になって吸っていました」
「そうかね」
僕らは笑ってしばらくタバコを吸っていた。一人で吸うより断然うまい。このビル全体で同じタバコを吸ってるのはおそらく専務と僕だけであろうから感慨もひ としおなのだ。異国の地で思いがけず出会った同胞、とでも例えるのか。古いが。あぁ〜落ち着く〜。男の世界だよな〜。ここと下のフロア、女人禁制にすれば いいのに。そしたらオレ、今にも増してばりばり働くぞ……。


 部屋に戻ってメールをチェックすると外部メールが1通届いていた。着信時刻はつい先ほどだ。送信者は僕の『同胞』、件名は『残暑お見舞い申し上げます』。
『鈴村研究室OB諸君 お元気ですか。おかげさまで私は新製品開発を成就することが出来ました。これもひとえに皆様のありがたい助言の賜物であります。詳 細は下記のアドレスをご覧下さい。この度ささやかながら酒宴の席をご用意したいと思います。どうぞ皆様御返信下さいますようお願いします。 鹿島豪』
早い話が飲みのお誘いである。例のあやしげなゲームを送りつけた主だ。受け取ったうちの誰かが彼の近況を気づかって連絡したのだろう。僕は何となくそこに 記されたURLをクリックした。ゲームのタイトル画面が表示される。残念ながら画像は見れないが見覚えのあるキャッシュ……。『philosophy』 ん? 記憶はつい最近の物だ。ああ、そうそう、あのエロゲーじゃないか、稲垣といったラブホテルにあった……。僕はメールに戻って彼に返信した。
『それはおめでとう。新作拝見しました。何だか似ても似つかぬ作品に仕上がってるな。偶然だが先日某所でいちはやく体験させてもらったよ。いつから方向転換したんだ? 趣味と実益を兼ねられていいな、君は』
きっとデスクワークだからすぐ返ってくるだろう……。そう思ってると5分ほどでメールが届いた。
『おお、キョ−スケか。元気か? いやぁ、アレやったっつーことはお前ホテルに行ったな。それ系の。しかもつい最近(爆)。』
僕は思わず笑った。
『悪かったな、行ったよ。お前もすさんでるな、タイトルがphilosophyとは。子供までいるくせに(爆)はやめろ、(爆)は。』
『すさんではいませんよ。甘いねえ、君たち独身は。』
なに? 僕はつい気になり続きに目をこらした。
『といいますか、困っているのです。とほほ。実はウチの嫁さん、盛りがついちゃってねえ。毎日毎日求められて疲れてるのですよ。』
なんだ? おいおい……。意外な内容に僕はこう返信した。
『それは結構なことじゃないか。浮気する間もないのか。』
もちろん半分冗談だが。が、状況はそうでもないようだ。こんな答えが返ってきた。
『いや〜〜浮気は別(笑)。とにかく激しいんで困ってるのよ。逆に他の男と浮気してもらいたいくらい。そう思って携帯持たせてみたんだが全然興味示さんのだわ。お前、よかったら相手してくれん?(笑)』
『冗談だろ。』
『いや本気(苦笑)。それと飲み会の話はマジおごりです。是非みんなにオレの話を聞いてもらいたい。』
彼はそれから具体的な場所と日時を指定したメールを送ってきた。僕はそれにOKの返信をして仕事に戻った。何と言うか……思いもかけない彼の近況報告で あった。てっきり枯れた夫婦生活を送っているのだとばかり思っていたが……。いや、あらゆるシチュエーションにおいて女性は強いのだな。ということにして おこうか。僕にも思い当たる節はある。ていうか、大ありだぞ、大あり!

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