恋する季節 13

 さすがに敷地内は賑わっていて、僕は稲垣が用を足す間、売店脇の自販機コーナーに寄った。タバコを買ってふと思う。そういえばこのタバコがきっかけだっ たな、稲垣とはじめてやったのは。たまたま今回もそうだったが。……その日。残業だった僕はひとりラウンジでタバコを吸っていた。最後の一本になって下ま で買いに降りるかどうしようかと思っていたところ、彼女がやってきて代わりに買ってきてくれたのである。「お疲れ〜、はいコレ差し入れ」とビールも一緒 に。で、酒の勢いっていうか、うだうだ飲みながら話しているうちにそういうムードになってしまったのだ。もう遅い時間で電気がついているのはそこだけ。廊 下は非常灯が続き……。誰もいなかったしな。
 「おまたせー」
稲垣は僕の所へ駆け寄ってきた。
「ね、なんか食べてかない?」
と、売店を指差してそこに入りかけた。
「あ」
彼女の足が止まった。目の前に男が立っていた。彼女を見て驚いた顔をしている。向こうは反対に売店から出てきたところだ。がっしりしているが人のよさそうな優男風である。僕はピンと来た。
「あ、どうしたの? 戻ってきてたんだ?」
稲垣が言うと男は微かに頷いた。
「あ……び、びっくりしたよ。こんなところで、何ごと?」
図体に反して男の声は小さく、舌足らずなのだろうか歯にモノの挟まったような喋り方である。
「あー、あのね、あたし、会社の人たちとドライブの途中なの。あたしの送別兼ねてるんだ。最後だから皆で行こうかって」
「あ、そういうこと? ど、どうも」
男は僕にぺこっと頭を下げた。僕も頭を軽く下げ、後ろを向いてさりげなく他の人間を探すふりをした。二人に遠慮するように見せ掛けそのまま売店の奥へ逃げ る。はーやばっ。例の本人さまじゃないかっ……。わからないように遠目で見てると男はすんなり外に出ていったようである。しばらくして稲垣がやってきた。
「やだ、もう。一瞬ドキッとしちゃった。こんなところで会うなんて。アレ、あたしのダンナさん」
僕は頷いた。
「お前よくあんなわざとらしい嘘思い付くな」
「わざとらしくないよぉ。アイツ、寸分も疑ってないよ。のんきなんだもん」
ほんまかいな。僕は軽く嘲笑した。
「車出ていったからもう安心よ。ホーント、こんなことってあるのねえ」
稲垣はふうとため息を吐いた。
「お腹空いちゃった」
僕の手を引くと売店のアイスクリームケースからカップにはいったヤツを一つ取り出しレジに並ぶ。車に戻ってエンジンをかけ、稲垣は封をあけた。
「ふふ、女って度胸あるよなあ。まあちゃんと送ってやるから安心しな」
僕は嫌味を込めて言った。稲垣はあーんぐり口を開けて最初のひとくちをほおりこんだ。
「やぁだ、そんな言い方しないで」
「大人しく戻んないとやばいだろうが」
「イヤ、一緒にいて。今日は家に帰りたくない」
「何言ってんだよ。アイツから電話かかってくるだろ」
「ケータイ切ってるもん」
「そういうんじゃなくて」
「かけてこないわよ、今日は遅くなるわって言っといたから。向こうも友達の家に泊まるって言ってたし」
喋る合間に小さなスプーンを口に運び……彼女が食べ終えると僕は車を走らせた。もう誰にも会わないことを期待して……。とりあえず行く先は都心だ。
「今日は帰りたくない」
「稲垣〜」
「ねえ、お願いよ、一人にしないで」
「どうすんだよ」
「一緒にいるだけでいいの」
「どういう意味?」
僕は無骨なセリフを吐いた。
「……なんだもん」
稲垣は急に小声になった。顔を窓の方へ背ける。ガラスに向かってぶつくさ言ってるようだが遂に車は練馬の料金所を出た。後はとにかく東へ、朝来た道を進む。
「あたし絶対降りないからね」
へーへ、もう勝手にしてよ。僕は返す言葉が浮かばなかった。
「どう思った? あたしのダンナになる人」
稲垣はまた話題を振る。
「いい男だ」
僕は答えた。見た瞬間の第一印象だ。
「……分かりやすいな、稲垣。性格は頼りないがいい男だから中々ふっきれない、というわけか」
「そう思う?」
僕は頷く。
「見た目よくて結婚と同時に一軒家建ててくれる男なんてそういないだろう。そりゃ少しは悩むよな」
「そうよ、はっきり言ってしまえば、でもね……」
稲垣は神妙な面持ちになった。
「こわいの、あたし」
「こわい?」
「あいつとぼんやりした時間を過ごすのがこわい。ぼわ〜っとただ時間だけが過ぎていって……一緒にいるとすごく不安になるの。最初は何でもあたしに合わせ てくれて、それって優しいんだと思っていた。でも違うの。優柔不断と優しいっていうのは違うのよ。あの人と一緒にいると何も決まらないの。別れようと思っ てもきっかけさえつかめなかった。この結婚は親が進めたようなものよ」
「話し合いにならないってことか」
「そんなこと言ったら泣いちゃうと思うわ」
それは情けない……僕は男の顔を思い返した。
「でもオレといても何もならないよ。それも確かだ。わかってるんだろ」
「わかってる。わかってるけど……」
稲垣はまた言葉を濁らせた。しばらく沈黙……。道路の方も次第に思うように進めなくなってくる。僕がナビに目をやると不意に稲垣が突破口を開いた。
「海が見たい」
なんかこういうシーンの決まり文句みたいだが。僕はもう逆らわずに苦笑だけし、そのままのろのろと千葉方面に向かった。

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