恋する季節 36

『タバコ吸ってます』と言おうとして口をつぐむ。彼女もタバコの箱を手に持ち、一本出したからだ。
「……お疲れさまあ」
だるげに口にくわえる。僕は無言でライターを差し出し、彼女のタバコの先に火をつけた。
「ふぅー」
もうひとつの紫煙が上がる。
「……今日は絞られたでしょ。ウチのボスに」
流し台にボクと並んでもたれ、前を向いたまま彼女は言った。ボスと言うのは副社長だ。
「まあな。まいるよ。どうにかしてくれ、この組み合わせ」
と僕が言うと、彼女はくくくっと噴出した。
「……環境会議なんてさ。副社長、そりゃも〜、張り切っちゃって。『秋沢くん、キミが年間に吸うタバコの煙のお陰でどれだけ環境破壊が進んでると思う?』 とか、フライトの間中ずーーーっと説教だぜ。オレが吸うタバコなんてたかが知れてるぞ。何故いつもオレと組ませる? 陰謀としか思えん。早く禁煙しろっ て」
僕は息をついた。とにかく嫌煙、潔癖症な副社長。聞く所によると環境オタク系のHPを密かに開いていて、ネットタバコ撲滅運動みたいなのを推進してるらしい。ぞっとするぜ。僕もかなりの潔癖症だが、種類が全然違う。
「……ホント、うるさいわよねえ。いちいち他人のタバコの本数調べて回って。私なんて家に帰ってもダンナがタバコ嫌い派だから。も〜〜〜、息詰まっちゃう」
「へ〜、そうだったのか」
彼女は頷いた。
「そうよ。つまんないヤツよ。細かいの。ボスと同じよ。『お前がタバコ吸えばオレが肺がんになる可能性が何%だか跳ね上がるんだ』って。出張入るとせいせいするわよ。いない間思いっきり吸ってやるの」
「そりゃー、気持ちわかるなあ」
思わぬ所に同志が。タバコの席では話が弾むものだ。大林とここで落ち合うのは初めてだが。秘書課の連中、殆どが喫煙者なのである。
「けど、結婚すると止めるってパターン多いんじゃないのか」
彼女に顔を向けて言った。
「……子供が出来たらね。でも言うだけでしょ。結局やめられなくて、かえって増えちゃうみたいよ、本数。ばかばかしいわよ。ストレス増える一方よ」
「ふーーん」
どのみち僕には当面関係ない……。僕は再び正面を向いた。
「つまんないわあ、ホント。結婚すると、遊んでもらえなくなるでしょ? コンパとか誘ってもらえないし。ウチの場合ダンナが頼りないからどんどんストレスたまっちゃうのよねえ。タバコも酒もやらないのよ。アイツ。宴会でもしてぱーーっとって気になるわよね」
「そんなもんかよ」
「コンパ……。またするんだってね。課の子募って。今朝聞いたの」
「へえ」
稲垣のヤツかな。早速招集かけてるのか。
「私は蚊帳の外よ。どうせなら耳に入れないで欲しい。……あ、ねえねえ、会社辞めるってホント?」
彼女は話題を変えた。
「ん? オレ? ああ。誰から聞いた?」
「(ボスが)社長とさ、話してて。『秋沢くんの後釜、どうしたものですかねえ』って。いつ辞めるの?」
「んーー。まだ、はっきりとは。来年3月くらいかな」
「ふうん……」
大林はタバコを吸うと、流しの脇にこすりつけて火を消した。僕を見る。
「それじゃさあ、辞める前に一度、私と遊ばない?」
割に真剣な顔で言う。僕は小さくうめいた。「はあ?」
「やあねえ、前にも言ったじゃない」
「ええ?……遊ぶって、何して」
「バカ。火遊びに決まってるでしょうが」
「冗談。だろ?」
僕もマジ顔になって答えた。こういうノリ。いつかの稲垣と同じかも。
「最初から遊びだけだから。辞める前に軽い気持ちでいいのよ。私もそれだけなの。つまんないのよ、今、マジで。さすがにコンパなんて行けないしね」
「……んなこと言われても」
僕は真剣に、悩める表情をした。『一応稲垣と付き合ってるつもりなんだけど……』そんなセリフが浮かぶが、口に出てこない。
「いや、さすがに同僚ってのはちょっと……」
かなり微妙な返事だ。
「同僚だからいいんじゃないの。知らない人とこじれるよりいいに決まってる」
押しが強い。どうしてこういう流れになるのか。
「ダンナにばれた時が恐い」
「ばれないわよ。ウチ、出張多いし」
「えーー。やめろよ。そんな話。やっぱ良心痛むよ。ダメダメ」
かなり短くなったタバコを消し、僕は流し台から体を離した。大林はぐっと僕の腕を握った。
「何よ。稲垣を寝取ったくせに」
目をギラギラさせた。
「ね、寝取ったって……」
途端にぎくっとなってしまう僕。「ち、ちが……。あれは、結果的にそうなったわけで……」
稲垣とのこと、知られてるのか。まあ、特に隠していないからいいんだけど。あいつにも婚約者がいたってのが少々厄介だよな。
『しかし、寝取ったって……』
その表現はあまり使って欲しくない。
「……はあーん。やっぱそこまでの関係なんだ。けど、その稲垣がどうしてコンパなんてやっちゃうわけ? おかしいじゃん」
そりゃオレもそう思うが。本人の意思だから仕方ない。僕は黙っていた。苦しい沈黙。タバコはもういいから逃げ出したいぞ。
「どうせ長続きしないんでしょ。あんた、いつもそうじゃない」
んっ、それ言われると……。ますます逃げ場を失う。
「……丁度いいじゃないのよ。遊びましょうよ、その数ヶ月の間だけ」
「そういうのやじゃないか?」
僕は言った。何だか知らないけど勝手に口を突いて出てきた。
「……何がよ。同じじゃないの。稲垣だってそうだったんでしょう」
同じ……。胸の中で何かがすとーーんと落ちてく。
 そう言われてしまえば、そうだが。確かに……。
「例えば今だって、ほら。誰もいないでしょ」
大林は僕の正面に立って、腕を伸ばした。香水の匂いがふわっと僕を包む。何をするのかと思えば……、胸のボタンを外したのだ、手早く。
「な、何する……」
「予行演習よ。ねえ、どうせ誰も来ないわ」
そ、それはそうだろうけど……。予行演習? 「わーー、ま、まて」
はだけた胸、ブラが露になる。いきなり過ぎる。そうじゃないか?
「何よ。拒むんだったらこのまま表に出て行って叫ぶわよ。『襲われたーーー』って」
彼女は幾分大きな声を出した。

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