夜明けのブラックコーヒー/カフェノアール

「小椋さん、そろそろ社長がお出かけになるわよ」
「はい、今いきますっ」


 あー、慌ただしい。
 私はよく社長のお供で展示会やら回らされる。会食やパーティに連れて行かれることもしばしば。言っておくが私は秘書じゃない。ウチの社長秘書は中年の男性だ。
 何で私なんだろう? よくわからないけど、この役、私は密かに苦手だった。
 ――それって社長がワンマンなオヤジ社長だから? 或いは年取ったよぼよぼの置き物社長?
 いやいや、社長は29歳独身。親会社の会長の息子で、数ヶ月前にウチの社長に就任、と苦労知らずのボンボンってヤツだ。まあ顔もいい方じゃないですか?
 なら役得じゃないか。
 って?
 それがちっとも役得なんかじゃない。というのは、私はかっこいい男に興味がないから。もっといえば、全くときめかない『変な』女だから。そう、私は、女 の子が憧れるようないわゆる王子様タイプの美形に全然関心がない。ジャニーズやらビジュアル系やら、具体的には、ベッカムやヨン様をテレビで見てもちっと もいいと思わない女なのだ。
 そんな私のことを友達は『デブ専』なんて呼んで珍しがる。
 『デブ専』とは、『太ってる男、もしくはぽっちゃり系の男を好む女』を指すらしいのだが、私自身はそんなつもりじゃない。でも実際付き合ってきた男の子 はみんなぽっちゃりして世間でいう所のハンサムカテゴリーには決して属していない子ばっかりだった。決してデプいってところに欲情するわけじゃなくて。私 はそんな人と一緒にいるととても落ちつくのだ。いつもひだまりにいるみたいにあったかくて、ぎすぎすしてなくて、心が安定していられる。特に、食事をして る時の表情がかわいくってきゅんとなる……。
 友達が彼氏とのえっちの話してても私は全然いいなあって思わない。どきどきもしない。私はピンクなお話に全然むらむらしない『変な』女。もちろんえっち してないわけじゃないけど、私のお付き合いでは二の次以下だった。それは別に過去に恋愛で痛い思いをしたとか、いじめによるものではない。初恋の人はカバ ちゃんて呼ばれてたまさしくカバ顔の男の子だったし。
 そんな私には社長のお供はあんまり嬉しくない――。
 社長は展示会でこれと思う物を見つけるとすぐに私に詳細をまとめるよう命じる。中々敏腕な人物だけど、私には私の仕事もあるわけだから少々キツイ。お陰 で付き合っていた彼と思うように会えなくなって、そのうち彼は転勤で地方に行ってしまった。内山くん似の楽しい人。ほのぼのしていい感じだったのに……。
 まあ、穏やか過ぎて追っかけるほどの情熱が沸かない、と言えばそうかもしれないんだけど。
 で、社長の話。何で『私』なのか。
 そう疑問に思い始めた頃、あるヒソヒソ話が耳に入った。
「社長、○△商事の社長令嬢との縁談何とか上手くかわせないかお悩みみたいね」
「またダミー使うのかしら。あの子。販促の子」
「恋人役にって?」
「まだまだ遊びたい盛りだし、若社長。あの子、まあまあ見栄えするしね」
「小椋さんも楽しんでるんじゃないの?」
「ふふふふ」
 そういうこと? 私は余計なムシを近寄らせないためのおとりですか。確かに、お客様との会食以外の個人的なディナーに誘われたこと数限りないし。
 恋人役だって――。
 だからいい男ってやなのよ。自分がもてるってことをひけらかしてるようなものだ。
 もっと遊びたいって? 最低……。
 いや、噂で決めつけちゃいけないんだけど。そばにいてそう感じる節は多いにあったりする。
 あろうことか、社長はこの私にもモーションかけてくるのだから。
 ディナー後のお誘いを私に。
 何なんだろう? 本格的に愛人としてしまおうと?
 もちろんお断りしてきたけど、最近ことさら美味しいネタでつってくるので断りづらくなってきた。例えば普通じゃ絶対手に入りそうにないどこそこの会員制 クラブだとか、オペラシティ観劇券付きディナー&バーだったりとか。さすがにぐらっとくる。でもいやだ。そういうの1度でも乗ってしまったら、たちまち異 次元の世界に引き込まれてしまいそうで怖い。ドロドロは私の世界じゃない。
 私はかたくなにそう信じていた。



 ホテルでの展示会が終わると隣の会場で立食パーティが始まった。今晩は帰社しないでそのまま家に帰るのだ。こういうのって一人暮らしにはありがたい。
 ……夕食代が浮くから!
 給料前のがめつさが少し私の貞操観念を緩めてしまったらしい。私はいつになく食欲旺盛だった。そして今夜はやたらと喉が乾いていた。しきりにドリンクをお代わりする私に社長が細長いグラスを持って来てくれた。
「何ですか? これ」
「さあ。コーラじゃないか?」
 私はその琥珀色の液体をゴクゴク飲んでしまった。喉を爽快に流れる炭酸系のそれは確かにコーラのような、ジンジャーエールのような味がして美味しかった。
 もちろん料理も豪華で私は食べまくった。そのせいか急激な睡魔に襲われてしまう。ふらっと大きな舟をこいでしまって私は会場の脇のソファに座るようすすめられた。「すみません」ってそれに従った。そこまでは覚えているのだけど……。その後はわかんない。
 どうやら私は眠ってしまったらしい。
 はっと目が覚める。
 ――暗い部屋。ここは、どこ?
 ぼーっと見渡しても覚えのない部屋。広い。寝室? かすかに物音がする。
「何で? 誰かいるの?」
 私は大ボケ……。カチャとドアが開くまでちっとも気づいてなかったのだ、そのことに。
「あ、え? 社長」
 薄暗い部屋に現れたのはいつもの社長。でも。スーツ姿じゃない。ローブを着て、髪をしゃかしゃか拭いていた。
「目が覚めたか」
「はあ。あのー、私、パーティで食べてませんでしたっけ?」
 まだボケてる私。
「食べてたよ。美味そうにね。で、眠っちゃったんだな」
「はあ」
 社長も平然と言うもんだから私はまだ事の真相が掴めてなかった。
「キミも浴びてくるか、シャワー」
「は? でも、き、着替えないし」
 社長はぷっと吹き出した。
「そりゃ旅行じゃないんだからな。鈍いね、キミは」
 笑いながらベッドに腰掛ける。タバコを出してくわえる。火をつけると、鋭い目になった。私を見る。
 どきっとした。その時はじめて、私は身の上に降りかかりつつある事態に気づいた。
「えっ、そ、あの、この部屋って?」
「僕の部屋。もう遅いから泊まっていきなさい」
 ええ!?
「え、えーと、じゃあ、私、失礼しますっ」
 焦ってぺこっと頭下げて私は彼から目をそらした。カバンを探す。見当たらない……。
「何を言ってるんだか」
 ふっと鼻で笑って社長はタバコを置き私の腕を掴んだ。途端に、びくんと体が張り詰める。
「! い、いやっ。何をするんですか」
「何をって。決まってるだろう。男女がベッドですることといえば、ひとつしかない」
「え、え……。困ります、帰ります、わたしっ」
「ダメだっ」
 強く引っ張られてベッドの上に押しつけられる。
「や、うそっ……」
 真上から見下ろされる。さすがの私も心臓が爆裂しそうだった。
 薄明かりの、鋭い視線。近づいて――。
「うっ……」
 という叫びが彼の口腔に吸収されていく。キスをされていた。タバコの匂いが充満するキス。口を閉じようにも閉じられない。唇を噛んでやろうとしても…… 逆に侵入されそうになる。私は必死に彼の舌を止めようとした。でも、体がおかしい。胸が、下半身が、熱い――。体を抱えこまれ、激しく口や首を動かされ、 ついに舌と舌が絡んだ。
「あ、ああ」
 いやなのに……。口の中をまさぐる舌に抵抗できないばかりか、私は次第に自分でも絡めていた。信じられない……。けど、この全身にピリピリくる感覚、これは今までになかった。逆らうことが出来ない。
 社長の手が私の胸元を探っている。
「い、いや……」
 言っても、声になってない。服を、テロンとしたシャーリングプルオーバーの裾から一気に上に持ち上げられ、下着が露になる。
「うっ」
 そこで口を離され、新鮮なひやっとした空気が体に流れこんだ。けれども手はちっとも衰えず、トップスを取り去りスカートのホックを探し当てていた。
「い、や……」
 ヤバイ。マジで。頭でそう思っているのに、私の体は変だった。腰が振れて、まるで脱がしてくれというような向きになっていく。
「ああ、いや、社長……」
 泣きそう。こんな乱暴なの、はじめてだ。いや、これが普通なのかもしれないけど。
 ファスナーがスムーズに下げられ、ストッキングもずらされ、私は上も下も下着だけになってしまった。ああ、こんなことなら厚着しておくんだった! わけわからないこと思ってみるがもう遅い。
「み、見ないでくだ……」
 声が震えて、最後まで言えない。私は目の前の社長のキツイ目が耐えられなくて、目を閉じた。震えながら横を向く。そうするとますます相手の思うつぼだ。
「綺麗だね……。まさかはじめてじゃないんだろう?」
 あんまり好きじゃない社長の声に体がびくびくしなる。変だ。この反応。いくらなんでも。こんなもんなの?
 はっ、まさか。
「ま、まさか……。あのジュース」
 パッと頭の中にあの茶色のジュースが浮かんだ。
「……ふふ。そうだな。ちょっと細工させてもらったよ」
「そ、そんなっ」
「いくら誘ってもさっさと帰ってしまって……。もう我慢の限界だ。実力行使だ」
 社長は悪戯っぽく笑った。そして、私の頬を舐めた。
「ひぃっ」
「……でもキミは鈍いね」
 ひどいっ。みすみす遊ばれるとわかってて乗るわけないじゃん! それは私の1番嫌いなパターンだ。
「社の男連中が狙ってるらしいからな。その前にモノにしなきゃ気がすまん」
 バカなっ。私は抵抗しようと両手で彼の体を押した。でも、びくともせず、手首を掴まれると頭の上に持っていかれた。
「あんまり抵抗すると縛るぞ」
「そ、そんなっ」
 そんなこと言ってしびれさすつもりなんだろうか。最低……。やっぱりいやだ、こんなの。
 でも悲しいくらい歯が立たない。どうしよう。
 そっと社長の手がブラに触れた。ビクンと心臓が鳴った。端のレースをなぞる指……。胸元からぞくぞく痺れが流れていく。
「い、や……」
 いっそのことすぱっといってほしい。そう思わせる作戦なんだろうか。とにかくひどい。こんなの、セックスなんかじゃない。
「いやだぁーー!」
 とうとう、指は後ろのホックを外し、するっとストラップを抜いた。乳房が開放されて、冷気を感じる。
「あああ……」
 恥ずかしい……。社長は動きを止めて見ているんだろうか。目を閉じてそっぽ向いているからわからない。
「綺麗だね。芽美……」
 名前を呼ばれてぞくぞくっとくる。
 ふ……っと頭が胸に乗っかって、社長は乳首を吸い始めた。半乾きの髪がちくちく当たる。
「くっ……」
 私は思わずのけぞった。ものすごい刺激だった。何て言うのだろう、いやらしいとか淫らとか悩ましいとかそういった類のモノ。耳の後ろから脇からぞわぞわする。もう、股間が湿っている。
 いやだ、汚い……。私は股を閉じた。けど、寸分の間もなく、太ももの隙間に彼の指を突っ込まれてしまう。
「あ、ダメですっ……」
 びくっとひきつけみたいなのが走る。どっと濡れる。彼の指のすぐ上で私の性感帯がびくついている。
 股に力を入れてその手を挟みこんでも、力を抜いても、彼にはおあつらえむきだ。
「や、あ、ああっ」
「好きだよ。芽美」
 うそばっかり、遊び人のクセに。普通の女だったらころっと参ってしまうのだろうか、この大人の男のかすれた低い声。
「あっ、やっ……」
 下着の上から親指であそこをなぞられる。既にびしょ濡れになってるひだを。ゆっくり、確かめるように彼は指を上下させた。
 びくびくびくびくっ……。体がどんどんいやらしい反応をしていく。それが頭のてっぺんまで覆ってきて、私は自分で耳を疑うような声を上げていた。
「あは、あぁん、あぅ」
 いやな筈なのに……。クリトリスを揉みながらまた乳首を吸われる。てっぺんを舌の先でつんつん突っつかれて腰が飛びあがる。弄ばれてる……。喘ぎながら胸が苦しい。あ、だめ、いきそう――。
「あ、あぁ、ああっ……」
 すんでのところで下の指が離れていった。手は1度遠ざかり、すぐに腰骨に触れた。そこからするっと濡れたショーツを脱がされる。
「はぁっ」
 その時の体勢の反動で私は横になり背中を丸めた。もちろん、照れ隠しでもある。全裸の体、見られたくない。
「芽美」
 社長の声が少し遠くなる。ばさっと服を脱ぐ音がした。肌が露出してひんやりする。
「ひっ」
 そこに体が重なってたちまち熱さを覚える。
「何を怖がってる。はじめてじゃないんだろう?」
 耳元で囁く声。何とも答えようがない。私だって久し振りのセックスだ。しかもこれはまだ未知のパターン。できるならここでやめてほしいのに。
「き、きたないです、わたし……」
 いまさらだが、私はシャワーすら浴びてないことを悔やんだ。かつてこんなことは1回もなかった。不潔だ。
「綺麗にしてあげよう」
「え」
 そう言うやいなや体をひねられ仰向けにされると、股を開かれた。
「あっ」
 そこに、彼の顔が。
「い、いやっ」
 濡れ濡れのクリに彼の唇が吸い付く。
「はあっ」
 脚を閉じようとしても、股の付け根の所を抑えられ、その角度に固定されていた。秘所をさらけ出し、彼の唇と舌のなすままに。
「いっ、やぁああああ―――」
 ここを舐められるの、はじめてじゃない。でも、こんなのってあっただろうか。こんな、稲妻のような強烈な刺激。いや、なかった。今までと全然違う快感が体中を巡った。
 舌が上下する。ひだに入りこむ。それに順じて息がきれそうになる私。
 理性がきかなくなりつつある頭にぼおっとイメージが浮かんだ。男の子だ。全然かっこいいとはいえない男の子。思えば私がデブ専なんて言われる所以は初恋 にあるのかもしれない。初恋の男の子があんなだったから、自然と似た感じの子と付き合ってきたのかもしれない。それって自然なことだ。なのにデブ専なんて 失礼だ。
 それが、こんな男に汚されてしまうなんて。これはセクハラだ。いくら上司だって、こんなのイヤだ――。
「はぁ、ああん、くふぅ」
 けれども私の声は、肉体はすっかり彼の愛撫の虜となっていた。これが姦淫ってものなんだろうか。いずれこの僅かな理性もなくなってしまって、彼の愛玩具のようになってしまうのだろうか。
「ぅうふ、う、うぅ……」
 またいきそうになって私はつんのめった。彼は唇をひだから離し、下から腕を伸ばすと乳首を揉んだ。強く。つんのめった体にびりびりとまた電流が流れる。
「あ、ああ、い、く……」
 唇はクリから離れていたのに、私はいってしまった。乳首を摘み上げられ、大股を開いて、彼の目の前でたくさん液を吹き出して。恥ずかしい……。ドクドク心音が走る。
「はぁっはぁっ」
 ピークが鎮まっていく。けれどもそこで終わるはずがなく、ぐっと脚を持ち上げられ、中にいれられる。
「うぐっ」
 一気に奥まで届いた。
「うっ、ああぁぁ……」
 何コレ、硬い。初めてだ。びりびりと引き裂かれるような鋭い衝撃が腹の奥から走った。
 と、すぐにずるりと引き抜かれ、
「ひゃあっ、あぁ、ああん、い、いやぁ」
 引いて押して、往復運動が始まる。すごいいやらしい音を引きずって。息が詰まるっ。こんな、こんなの知らない、今までもっと柔らかだった……。
「は、ああっ、あっ」
 その太く硬い棒で奥を突き上げられる度に私は声を張り上げた。曲げられた脚が感覚を失っていく。神経が股間から伸びてくようにそこに感覚が集中して。
「ああああっ……、ん、んんん――」
 いやがって腰をひねると余計に、クル。ベッドがきしむ。揺れが激しくなっていく。
「っ……。あ」
 彼の声が漏れる。彼も、少しはきてるのか。
「いっ! やっ……」
 膝がクロスされ、ギュウッと締まる。そこをまた奥まで貫かれ。硬いのに、ぐっしょり濡れていて痛さを感じない。それが、ねじりこむように往復しながら、 左右に角度がずれていくのだ。パンパンという音と、びちゃびちゃ擦れる音がだんだんひどくなる。突く間隔がどんどん短くなって、圧される。外から内から圧 縮されていくような感覚に、シーツを握りしめて耐えた。
 ああ、奥にっ……。
「出したい……。出していいか」
 急に、声らしい声がしてビクッとした。
「ダメ……」
 そう言ったつもりだけど声になっていない。いや、頭に血が上ってそれどころじゃなかった。今にも、はじけてしまいそうに、きていた。
「あ、ああ―――っ」
 ぐっと押しこまれたかと思うと、すっと軽くなった。次の瞬間、頭の中が真っ白になり、殆ど同時にお腹の上に生ぬるいものが飛び散った。
「はぁはぁはぁ」
 周辺の空気が熱い。彼は私の上で頭をもたげた。肩が揺れて苦しそうだった。私も同様に酸素を求めた。にくったらしい筈なのに、一瞬愛しく思えた。肩から すっぽり抱きしめられる。腹の間に粘ついているのは多分精液だ……。今までされたことのない行為だけれど、不思議と嫌悪感がわかない。
 ――やっぱり顔がいいと得なのか。
 認めたくないが、認めざるを得ない状況ではある。
「芽美。好きだ。オレと付き合ってくれ」
 社長はそう言って今度はキスをし始めた。ちゅばっと吸いつくキスを。それは唇や乳首だけでなく、全身に及んだ。そして私はまた彼に抱かれた。彼は今度は避妊具をつけ、上にならされて、乳房を愛撫されながら何度も。
 次に目が覚めたのは夜が白白と明けた頃だった。寝ている私の体を社長が撫でていたのだった。その心地よさで目が覚めた。
 結局すっかりやられちまったわけか……。
 そっと見上げると、彼はまたローブを着ていた。目が合うと微笑んだ。
「シャワーを浴びておいで」
「はい」
 私は大人しく従った。ローブを羽織らされ、よろよろと腰を押さえ、バスルームを教えてもらって入る。彼が出たすぐ後みたいで、中はあたたかかった。さす がに社長の自宅とあって、どこもかしこも豪華な部屋だ。寝室や他の部屋もゆったりとして調度品もシンプルで高そうなものばっかり。バスルームも余裕で5、 6人入れそう。真っ白で、真鍮の金具が光っている。
 脱衣スペースとなっている洗面所に出て私ははっとした。
 全身を写す大きな鏡に自分の姿が映っていた。体のところどころ赤い点々がついている。
 キスマークだ。
 ショックだった。そこにいるのは今までの私じゃなかったから。全身に男のマークをつけたいやらしい姿。こんなの私じゃない……。
「どうしよう、私。やっぱり自信ない」
 ものすごい後悔の念が突如沸いた。社長は付き合ってくれって言ったけど、それは『大人の付き合い』だ。私が経験してきたのと違う。絶対、セックスが中心 になる。もしも彼とこんな付き合いを重ねれば、私はもうあのほのぼのした世界に戻れなくなってしまうのでは――。
 男の妄想やらエゴに引っ張りこまれ感じさせられて。それって幸せなの?
 私が男の人と付き合う基準は一緒にいて和むこと、穏やかな空気、雰囲気だったのに。社長はどうなの? 遊びじゃないの? 女をたぶらかす男なんて私は大嫌いだ。大嫌いだった筈。
 それが――。
 私は当分鏡の前で絶望を味わっていた。そしてローブを着て、バスルームを出た。ふっと芳醇な珈琲豆の香りが鼻につく。リビングダイニングの片隅で彼がコーヒーを入れていた。
 それは私の決心を少し鈍らせた。あまりにいい匂いだったから。珈琲屋の自家焙煎の豆の香りのようだったからだ。
「コーヒーを。飲むだろう?」
「あ、は、はい」
 目配せされてとりあえず座る。丸いテーブルの素っ気無い形の椅子だ。これはおそらくダイニングセット代わりなんだろう。キッチンカウンターのすぐ近くで、大きな掃き出し窓やテレビが見える位置にある。
 社長はどうぞとカップを差し出した。これまたモダンなカップにブラックコーヒー、ソーサーにはスティックシュガー、クリーム、金のスプーンが添えられている。
「あ、ど、どうも」
 社長は自分のカップもテーブルに置き、椅子に腰掛けた。そしてコーヒーを飲まずにじっと私を見つめた。
「付き合って欲しいんだ」
 私は黙りこんだ。やっぱりいきなり「いやです」は言えない。言葉を探る。
「そ、そんな。あの、私、そんなの、ちっとも知らなくて……」
 想定外なんですけど。真面目に言われると困る。
「鈍いね、キミは」
「あ、は、す、すみません」
「……そういう意味じゃなくて。あ、もちろん、それもあるんだが」
 私は気まずくてコーヒーをすすった。そんな風に言われると断りにくいじゃないか。どうしよう。
「……ブラックも飲めるようになったんだね」
「飲めますよ」
 ……このくらい。そう思ってふと気づいた。
「? どういう意味ですか」
 社長は意味深に微笑んだ。
「……このコーヒーはね、豆を倉敷のある専門店から送ってもらってるんだ。僕は昔倉敷に住んでてさ。キミもそうじゃなかった?」
「はあ」
 よく知ってるな、そんなこと。そんなことまで調べてるのか。
「その会社がやってるカフェノアールって喫茶店は倉敷じゃ結構知れてるんだよね。僕はその近所に住んでてさ」
「えっ、カフェノアール?」
 私は驚いた。『カフェノアール』。それは私が子供の頃よく遊んでいた神社のふもとにある喫茶店だ。あの辺りじゃ珍しい自家焙煎のいい匂いがいつも漂って いて、昼間は普通の喫茶店だが、夜はシャンソンやジャズを流す店に変身する。カフェノアール、大人への憧れが詰まった店、とでも言うのだろうか。まさかこ こでその名前を耳にするとは。
 随分前に移転したって聞いた。
「まだ気づかない?」
「え? 何をですか」
 きょとんとする私に肩を落として苦笑する社長。やれやれ、と続きを話しはじめた。
「僕はね、今の両親の養子なんだ。小学生の時ホントの両親が事故で亡くなって、子供のいない遠い親戚の家に引き取られたんだよ。昔は、倉敷にいた頃は、 『茅場陽一』って名前だった。小さい頃って幼稚園で名前をひらがなで書くだろう? それで僕は『かやば』が『かばや』と覚えられて、いつのまにか『カバ ちゃん』てみんなに呼ばれるようになってね」
「へえ〜」
 なるほど。私は相槌を打った。
「……えっ!?」
 そして、耳を疑った。
「カ、カバちゃん!?」
 指を指した。社長はゆっくり頷いた。
「えっ? えええ――――」
 それから更に数十秒。やっと、気づいた。彼が言わんとしていることに。
 カバちゃんって、社長があのカバちゃん!?
 ――全然違うじゃん。
「そんなにびっくりするかな?」
 社長は顔を引きつらせつつ笑った。
「だ、だって、それならそうと、言ってくださいよ、早く!」
「そうなんだが。じきにわかるだろうと思っていた。だが、いつまでたっても気づかないから……」
「そんな」
 唖然。驚いたってものじゃない。
「オレはすぐわかったよ。おぐらめみ。かわいい名前でずっと頭に残っていた。ここの社長になって、偶然キミのことを知って、すぐに手を打ったんだ。ああ、 もちろん僕も驚いたよ。こんな偶然ってあるのかって、目を疑った。キミはあの時の面影があるね。僕はめみちゃんと仲良くしてたつもりだったから、キミもす ぐわかるかなと思っていた。しかし、うぬぼれだったな。あっという間に半年も経っていた」
「わ、わかるわけないじゃないですか! 全然別人ですよ。それに私、カバちゃんの本当の名前知らなかったし」
 そう。学年やクラスなんて知らなかったのだ。ただ、鍵っ子の放課後教室で、みんながカバちゃんって呼んでいたから。カバちゃんとだけ記憶に残っていた。とっても好きだったカバちゃん。
 どうしても私の頭の中のカバちゃんと社長の顔が一致しない。カバちゃんはちょっと太っていて、文字通りカバっぽいスキッパだったのに。
「名前も覚えてもらってなかったのか。そうか……」
 社長は何だかがっかりきていた。
「そ、そんなの、セックスした後に言わないで下さいよ!」
 それって小学校1年か2年の時の話よ!? わかるわけないって。
「まあ、そうなんだが。だんだん言いにくくなってきたのも事実さ。オレ、そんなに変わってるか? 変わったところといえば歯を矯正させられたくらいだが。あと、やっぱり環境に中々なじめなくて悩んだりした時期もあってね。それで少し痩せたんだ」
「ええ……」
 やっぱ本当なの? 信じられない……。
「あの店。ちょっと他と違ってて、みんなよく覚えていたよな。カフェノアールってブラックコーヒーって意味なんだよな? それ教えてもらって、ある日、 『いっぺんブラックコーヒー飲んでみたい!』ってめみちゃんが駄々こねて、オレの家で飲んだことがあったんだ。匂いがいかにも美味そうだろ? コーヒーっ て。だが、案の定全然飲めなくて、母さんに一杯砂糖とミルクいれてもらってさ。あん時の苦そうな顔、今でも何となく浮かぶな」
 マジで?
 どうしてそんなこと覚えているんだろう。社長がカバちゃんだとすると、カバちゃんは私の3つ年上になる。それで私より記憶に残っているのだろうか。
 カバちゃんも私のこと想ってくれてたの……。
「だがショックだな、そんなに驚かれるなんて。まだ信じてない? 昔の写真でもひっぱり出してみようか。残ってるかな? あ、もしよかったら今日、親の家に行かないか。あれば見せてあげる」
 社長は真剣にそんなことまで言っていた。今日は土曜日。信じられない展開だ。
「カ、カバちゃん……」
「うん?」
 ホント、信じられない展開。頭の整理がつかない。そんなに変わるもの? 私をデブ専にさせたカバちゃんがこんなになっちゃってるなんて! どうすればいいの。
「付き合ってくれるよな、芽美」
「は、はあ……」
 って、好みはすぐに変わらないよ?
 何て言おう。静かな時が流れる。コーヒーの香りだけが際立つ静寂が。香りの向こうに、うっすら、昔の光景が浮かんだ。
 私が好きだったカバちゃんの姿が。
「……あの時のカバちゃんだったら喜んでお付き合いさせてもらうんですけど。それか、セックスなしか」
 それに引き出されるように、ボソッと本音が。社長は困惑し、空気が非常に気まずいものになってしまった。
「イエスかノーかで言ってくれないか」
「うーーー」
 押し問答だ。究極の選択。……もしかして人生最大の選択? と、余計にプレッシャーがかかって 、私が結論を出した時にはコーヒーは2つともすっかり冷めてしまっていた。

幻の倉敷シリーズ。倉敷もどんどん変わっちゃってるんだよなあ。チボリなんてとっくの昔になくなってるし。←ローカル。わからないですね。(^^;
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